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人生は、転がるラグビーボールのよう── 田村優の人生から読み解く「目標達成力」

楕円のボールが辿る軌跡は人生に似ている。この先どう転ぶかわからない。そんな競技を生業としながら、彼は自分のやり方を貫いてきた。

ラグビー日本代表スタンド・オフとして背番号10を付ける田村優(30・キヤノンイーグルス)は、ジェイミー・ジョセフがヘッド・コーチに就任した2016年以来、全代表選手のなかで最長の試合出場時間を誇っている。アタック・コーチのトニー・ブラウンが「世界5指に入る日本最高の10番」と公言し、同い年で主将のリーチ・マイケルは、「大学時代の田村は天才、日本代表になってからは神様」と讃える。

田村が敵の背後に球を蹴り出すと、やにわに試合は動き出す。得られたペナルティ・キックで着々と得点を重ねる彼は、昨年のW杯でジャパン最多の51得点を挙げるポイントゲッターであり、不動の司令塔だ。その振る舞いに迎合の気配はない。「人生の目的」だとか「計画性」だなどという言葉はあまり好まないようで、田村はクールにこう言う。

「ダラダラ過ごすのが一番好きです。ソファに寝転がったり、お茶したり、友だちとお酒を飲みに行ったりとか、そのときの気分で動くんです。グラウンドを離れたらラグビーのことなんて考えない」

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田村は1989年、愛知県岡崎市で生まれた。父親の誠は帝京大学ラグビー部出身。長らくトヨタ自動車でプレーし、社会人日本一も経験している。現役引退後は同社ラグビー部監督や日本代表のバックスコーチを歴任し、日本初開催となったW杯では大会組織委員として運営に携わった。そんな家庭環境も影響してか、田村は中学卒業を機に幼稚園から続けてきたサッカーからラグビーへと転身。進学先の國學院大學栃木高校は、父親の出身高校の同期がラグビー部顧問を務める学校だった。

「ラグビーにしたのは親に勧められたわけではなく、自分の性に合うなと思っていたから。将来はプロ選手になりたかったことも理由のひとつ。キックに不安はなかったけど、最初は楕円のボールがどこに飛んでいくのかまるで見当が付かなかった」

幼いころから学業成績は振るわず、私生活は自他ともに認めるかなりの悪童だった。かつての自分をふり返る田村の口調は粗野になる。表情ひとつ変えずにこう言う。

「学校も私生活も問題児そのもの。何をやっても怒られるような生徒で、友だちは僕のそういうところをすべて知ってますよ」

高校3年時には私生活で問題を起こし、休部か転校の瀬戸際に追い込まれた。このときは父とともに顧問に詫びを入れ、辛うじて最悪の事態を免れたというのだから、田村の青春はテレビドラマの『スクール☆ウォーズ』を彷彿とさせる。

「高校時代にユース日本代表にも選ばれたけど、コーチから『素行が悪い』とか『態度がなってない』って文句言われて、じゃあ行かないってヘソ曲げてました。そんな性格は今も変わっていないと思う」

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目標達成の連続で身についた自信

高校では全国高校ラグビー大会(花園)出場の、大きな原動力となった田村。大学の進学先は強豪の、明治を選択。その理由をこう話す。

「ラグビー部の仲間が明治に行くって言うし、そういうやんちゃなヤツらが集まってる学校の方が楽しいかなって思ったんです。大学時代はチームメイトにはすごく恵まれました。僕たちは明治伝統の『前へ!』というラグビーが大好きで、その言葉通りに真っ直ぐな性格のヤツらばかりです。好きなことを何も考えずにバッとやっちゃうから失敗も多いですけど、彼らとは今でも仲良いし、いつも支えてもらっています」

大学時代の目標は学生日本一だったが、最上級生の年は準決勝で早稲田に10―74と大敗するなど、4年間で一度も制覇は叶わなかった。卒業後2011年にNECグリーンロケッツに加入。田村の才能が大きく開花したのは、翌12年の日本代表入りである。

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田村を指名したのは前代表監督のエディー・ジョーンズ。代表入りに際してはその私生活が問題視されたらしく、本人はこう言う。

「エディーはジェイミーと違って神経質ではあるけど、『ちゃんとラグビーをやっていればそれ以外のことは関係ない』って言ってくれた。『じゃあ、やってもいいかな』と。でもせっかく呼んでもらったからには試合に出続けたかったし、絶対に代表から外されたくなかった」

田村は日本代表として同年開催のアジア5ヵ国対抗戦で4試合に出場し、初戦でファースト・トライを挙げるなどの活躍で、日本の優勝に大きく貢献している。

それら田村が経験した対外試合はゆうに60を超える。なかでも15年W杯における南アフリカ戦の勝利は、世界中を驚かせる日本ラグビーのエポックとなったが、田村が得たものはチームの快進撃同様、世界で戦う自信だった。

「日本人って海外チームから舐められてますからね。身体は小さいですけど、僕らの方が断然ラグビーがうまい。彼らとは強みが違うんですよ」

ラグビーでは、お互いの戦力を測るときにチームの平均体重が参考値とされるが、田村はあまり意味がないという。

「ラグビーってそんなもんじゃないです。海外のヤツらはただデカいだけだなって、前回大会のときから思ってました。でも、日本代表の彼ら(外国出身選手)は日本のために力を尽くそうという友だち。だから僕には『外の人』っていう見方はまったくないです。」

世界の8強に名を連ねた日本代表チームは、各国から集まった稀な才能の総和である。それを表す「ワンチーム」という言葉の意味を、彼は享受したメリットも含めて心から理解しているのだ。

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千里の道も一歩から

現在の所属チームとプロ契約をしている田村は、日本人ラガーマンとしては最高額の年俸を得ているといわれる。少年のころの夢も叶え、ジャパンを背負って立つこの男の次の目的は何なのか。

「とりあえずの目標は達成しちゃったんで、今はまだ何も考えられない。奮い立つ何かが僕の中で生まれればまた頑張るだろうけど、そうでなければ1年くらい何もせずに過ごすかもしれない」

「ショート・ターム・ゴール」というリハビリ用語がある。怪我や障害などによって傷ついた神経や筋力を元に戻すには長期の辛いリハビリを要するが、その過程で挫けないようにと、短期目標を積み重ねて最終目標に至るという考え方をそう称する。

意識せずとも、田村のこれまではまさにそれだろう。行方の定まらぬ楕円球と同様、右に左にタッチを刻んでインゴールを目指してきたのだ。

世の中の変化が急激に進むVUCA (Volatility、Uncertainty、Complexity、Ambiguity)の時代において、長期的な目標から逆算した行動設計は難しいといわれている現在。しかし、長期目標を立ててクリアすることが不可能なわけではない。目の前の目標をひとつひとつ、着実に乗り越えながら結果的に偉業を成し遂げていく田村は、本人が意図せずとも時代の流れと則している。ただの行き当たりばったりではない。日々の愚直な積み重ねから生まれた自信が、どんな挑戦をも乗り越える田村の胆力を養った。小さな目標を達成し続けたその先に新たな景色が広がり、さらに大きな夢への挑戦権を手にするのだ。

4年後のフランス大会には34歳となる田村だが、さすがに40歳で現役ラガーマンは無理ではないかと尋ねると、「できますよ! そういう変な固定概念をなくすこと」と一蹴する。

ラグビーは、少々の骨折でも痛みを堪えて仲間のために果敢にタックルをするスポーツ。田村が人として真っ当な道を歩んで来られたのもラグビーだからこそ。仲間とともに彼方の夢に向かって一歩一歩進むことこそが、自己実現の唯一の道であることを、彼はよく心得ているのだろう。

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たむら・ゆう
1989年生まれ、愛知県出身。大学卒業後、NECグリーンロケッツ入団。12年、初日本代表選出。17年よりキヤノンイーグルスに所属。

Promoted by THEO / text by Yorimasa Takeda / photographs by Kei Ito
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